こちらの素朴で精巧な造型の庭園建築は南厅(ナンチョウ)です。四百年余りの歴史を有し、竹と水に面しており、古くはこの園主の書斎兼寝室でした。南厅の外墙(そとべい)には、多くの浮き彫りが施されています。それらは、南厅園内で発生した下人らの雇用契約取り消しを要求する熾烈な闘争を表現したものです。明朝の末年に、各地で発生した農民決起の波が押し寄せる中、この嘉定の地一带においても下人らによる闘争が勃発しました。古猗园南厅の闘争もそのうちの一つです。当時、下人らの群集は主人宅である南厅に結集し、人身売買契約書を出させるとともに、主人であった李宜之(リギシ)一家による数々の罪状を列挙しました。それを受け、李一家は故意に責任逃れを図ろうとしたため、下人らの逆鱗に触れ、全員撲殺されてしまいました。しかし、李宜之本人は当時、偶然、用事で外出していた為、その難を逃れたのでした。この事件により、一度は、(災難の難の字から)“难厅(ナンチョウ)”と名づけられました。南厅は日中戦争で、破壊されましたが、後に数回の改修工事を経て復元され、現在は化財に指定されています。院内は静寂で、筍型の石、睡蓮、蝋梅(ロウバイ)、そして、手入れされた竹が茂り、四季折々の景色が楽しめます。また1976年には、著名な画家である刘海粟(リュウカイソク)とその夫人が写生に訪れ、南厅を気に入り,お茶を飲みながら休憩しました。
南厅の外にそびえたつ石の建造物は“唐代经幢(トウダイケイトウ:唐時代の経文の刻まれた石柱)”で、唐時代咸通(カンツウ)八年(公元867年)に、八年がかりで建てられました。高さ约十メートル,天を仰ぐ形の蓮の座に、四天王が刻まれています。またそれぞれの節はくびれ、蓮の花弁が刻まれており、唐時代最盛期の非常に優れた工芸技術を垣間見ることができます。元々は南翔寺の大雄宝殿前に建てられ,南翔寺八景の一つとされていましたが、1959年に古猗园内に移され、文化財として保存されることになりました。しかし、1988年には落雷にあい、上半分が破損、焼失してしまいましたが、別のもう一つの唐代经幢は、今もなお、完全な形のまま微音阁前に建っています。
唐代经幢の南侧には、四方を堀にかこまれ、木々が生い茂った寂れた小さな松の丘があります。そこは、清時代の咸丰(カンホウ)年间に存在した秘密組織、小刀会(しょうとうかい)の連絡所のうちの一つでした。
南厅西侧の小石桥(コセキキョウ)を渡って北へ進み、引き続きご観覧をお楽しみください。